セイロン沖海戦
3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早期に終了、作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まらない状態であった。
1941年12月のマレー沖海戦で大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍の最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インド(現在のインドネシア)の安全を脅かす存在であった。
この状況において、虎の子の空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である。しかし、作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。
連合国
一方、連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として艦隊現存主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処に対して行われるかを特定するのは重要な問題であった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルはダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取っていた。この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する艦船の集結・ラミリーズ、ロイアル・ソブリン等の増派をはじめた。サマヴィルは27日にウォースパイトに将旗を掲げた。
イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させインド洋西部、モルディブ諸島のアッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
インド洋のセイロン島沖で日本とイギリスが戦った戦争です。